真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

「会社は誰のものか」という問いは「家は誰のものか」という問いに似ている

家族4人。夫婦ふたり、中2の姉、小5の弟。

夫は普通のサラリーマンであり、ベッドタウンの2階建て一戸建てから都内へ勤めている。通勤時間往復2時間。妻は主婦の傍ら地元のスーパーでパートタイムの仕事をしている。姉はブラスバンド部でフルート担当。合唱部も兼部しつつ、家庭では料理、洗濯、犬のボンの散歩などいろいろと親をサポートする。弟は受験のある私立の進学校へ合格するため週の半分は塾に行っている。法律上の土地所有者は夫にあり、家もそうである。

という状況で、誰かが「この家は誰のもの?」と聞いたら、法律的な問題はともかく、一つ言えることがある。その家族に普通でないおかしな問題が起きている可能性がある

法律的には、土地の所有者が夫であるという事実を踏まえても、おそらく家族全体の所有であるといった、状況を弁えた判決がくだされるだろうが、そ も そ も それ以前に、幸せな家庭とその周囲に何も問題がなければ、誰が家を所有してるのかといった議論を普通は語りあったりしない (法律の勉強でもしていれば別だ)。

法律に書かれていようがいなかろうが、問題は実はその問いではなくその問いが行われていること、その状態自体にある。法律上誰が正しいとか以前に、何か歯車がずれているのだ。

「人は何で生きているのか」という問いに対して、ある哲学者は(一般人向けに)こう語った(と記憶している)「そもそも、生きていることに満足している人がその問いを発することはごく稀で、その質問が口から出てくる時点で、その問いの裏に、その人は何か問題をかかえてるはずだ」(http://www.amazon.co.jp/gp/product/4862481140/mowanetjp-22)

とゆーわけだ。オチはない