真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

再生産を肯定するための考え方

再生産が無益、あるいは有害となるのは誰に対してであろうか。おそらくそれを受けとる社会となるだろう。同じものを別個のものとして捉える態度には高い負荷がかかるのである。

一方、再生産を「自力で」行なえたのであれば、その人自身はその再生産を行なう能力を有しているという意味であり、それはその人個人を認める上では、むしろ肯定的に捉えるべき事柄なのではないかとも思う。

#ここで引っかかるのは「自力で」という点だが、実際には世の中の多くのものが模倣により成されていると言われる通り、本当に「自力で」あったかどうかは判別のしようがない。だから、実際に判定する上では、ここは多少おおざっぱに捉えざるを得ないだろうし、おおざっぱに捉えて良いのである。

再生産された結果自体は有害であるかもしれないが、それを再生産せしめたその人の能力は否定する必要もない。もしそれが本当にコピー品なのであれば捨てるだけであり、その人は延々無意味なコピー品を生産するだけだろうから、やはり次の再生産品も捨てるだけで良い。それらが蓄積して、その人の能力自体に結び付くことはありえる。一方、自力で再生産出来るのであれば「次」が期待できる。

再生産に気付いた者の取るべき態度

再生産を行なったように見える人々に対する上での真摯な態度は「それは〜と同様のものに見えます。〜を検証してみてはいかがでしょうか」と問うことだ。これは「それは〜と同様のものに見えます。あなたは既にあるものを再生産したのです」と言うことと同義ではない。

「それは〜と同様のものに見えます。〜を検証してみてはいかがでしょうか」という発言においては、もし「〜」が全く同様のものであれば、彼はそれを認めるか、もしくは少なくとも彼の生産したもの自体の価値は実際になくなる。もし「〜」が全く同様のものでないのであれば、彼はさらに自信を以てその道を突き進んで良い。いずれにせよ、彼自身の能力は否定されないし、後味が悪いということもないだろう。

「それは〜と同様のものに見えます。あなたは既にあるものを再生産したのです」という発言は、単に「〜」と同様のものを生産したという決めつけと、その人の能力自体をも否定してかかる態度が透けて見える。彼がコピーを行なったのか、それとも自力でその地点に到達したか、全く意に介していない。あまり肯定的に捉えられる発言ではないのである。

もちろんこれは字面の問題ではない。声色も含めて、以下のうち、どれを伝えているかが重要なのである。

  • 再生産の可能性を示唆する
  • その人のその場での功績を否定する。
  • その人自身を否定する

再生産の危険を冒す人々の取るべき態度

生産するものとしては「再生産」というレッテルがいつ貼られるかは最終的には分からない。いくらネットがあろうとも、ネットにない情報を以て側面攻撃を受けることが多いのは未だ事実だ。

だが忘れてはならないのは、もし自分が「自力で」再生産せしめたのだとすれば、自分自身には自信を持つことだ。再生産した結果を否定できたとしても、その否定から自分自身を否定することは出来ないとはっきり認識することである。

この心情へ至るには二つの行動指針が必要だ

  • 再生産するにしても「自力で」再生産する。コピー品を自分の成果と偽らない
  • 再生産だと指摘されたら、比較し、明らかな再生産だったとすればそれを認める

その他

再生産単体から、その人個人の能力を否定することは出来ないだろうが、大量の再生産の結果からその人個人の能力を否定することは可能であろう。

実際の世の中では再生産を「新技術」と称して売ることによって利益を得られる場面が多々ある。本当の新技術にレッテルを貼ることでその技術の影響力を落とすということも普通に行なわれているだろう。今回の考察ではそのような実利的な側面には注目しなかったが、もしそのような戦略を取るのであっても、上の考察は役に立つだろう。簡単に言えば、逆をやれば良いのである。