真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

ものごとを動かすために必要な2つの視点

世の中はインセンティブで動くとは良く言われたものだ。

自然法則であればそれで議論は終わりだ。自然法則自体には人間の意図が介在する余地がない。

一方、社会法則はそうではない。為政者とは、市政の人々のインセンティブをどう動かすかを考え、それを「制御」すべき人種である。例えば、石油に思い税金を課せばそこに「使わない」インセンティブが生まれる。逆に補助金を出せば「使う」インセンティブが生まれる。そのどちらに人々の意識を向けるかによって、経済の行き先は異なる。さらに視点を広げれば、石油によるたなぼた収益からテロ組織を生み出させるか、石油以外の収入のために産油国を奔走させ政治腐敗を止めるかを決めることになる。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E9%9D%A9%E5%91%BD-%E4%B8%8A-%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/4532314410/mowanetjp-22

為政者は「見える手」である。彼らの決めた政策が市場の構造を変化させていく。彼らがいい加減な破滅的な政策を取れば、市場が滅ぶ。

為政者も含めて全てインセンティブの虜になったらどうなるのかは「暴君」という言葉が横行した中世以前の為政を見れば分かる。率直に言えば、良好な市場はとてもではないが育たない。

また、為政者の「インセンティブ」には経済学における「外部性」を極端に貶める傾向が生まれる。つまり、「力のない隣国のことなど知ったことか」といった視点であり「10年後の地球など知ったことか」という視点であり「国民のことなど知ったことか」といったことである。自分という主体以外を軽んじることこそが自分の便益を高める。「回りまわって」自分に咎が回るタイミングでは「自分はそこにいない」。任期の短い政治家が嫌われる理由の一つでもある。

政治にかかわらず、何かを「仕切る」人間には特別な類の自制心であれ良心であれ、インセンティブを越えた判断が必要となる。仕切る側が自身の利益を最大化し、問題が起きるタイミングで「私はそのときにはいない」状況をつくり込むことは厳に避けねばならない。

しかし市場はインセンティブに敏感である。ある一定以上の「道徳」は一般市民全体には行き渡らない。平均を底上げすることは出来るだろうが、全ては無理だ。近年「契約」を過剰に重視する傾向が強まっており、記述なきことがらは最悪の前提で持って挑まねばならないことが増えている。道徳は、その良心の前提を両者が持てるという前提をもって契約の代替となる得るが、インセンティブの前には力不足の感が否めない。市場原理主義がまかり通るのであればなおさらである

すなわち、為政者であれ、総元締めであれ、仕切る側には2点学ばなければならないことがある。

さて、うまく行っていない例として文化の保存という問題を取り上げよう。上記の説明とはうらはらに例は卑近だ

http://alfalfalfa.com/archives/1019969.html

やがて日本語の質が下がるんじゃないかってことですが、何か論点がズレてきたので半裸なうin会社。

下がるだろうが、出版業界は、その議論を市場を構成する作者と読者に押し付けることはまかりならない。

この出版社側の立場はおそらく二点ある

  • 出版業界の雇用が満たせない
  • 「日本語の質」を懸念している

追記:思うに「日本語の質」という表現はここではおかしい。むしろ「表現全般の質の確保が行えない」ことを懸念しているとするべきだろう。しかしこの違いは、以下の議論の骨子には何ら影響を及ぼさない。

先程立てた「2点」を元に考えてみよう。「日本語の質」を懸念すること、これは決して場違いではない。話は飛ぶが、以前書いたとおり (目にする論調全体がゴシップ記事化してる - 真 もわ爛漫)、こういった傾向は長期的な範囲で起こることで「中抜きの破壊」を起こしたからと言って短期に見えてくる傾向ではない。だから短期的な結果で、例えば上記のコミックの作者がより多くの利益を得ただとかそういった点だけで議論しても意味が無い。そこまではよろしい。

問題は「雇用が満たせない」ことと上記の「日本語の質」を二つ絡めて「だから出版業者をスキップするべきではない」という理屈を展開し、暗に作者に圧力をかけているという点だ。

雇用が満たせない点を解決する手段はインセンティブに拠るべきである。彼らは市場を構築して制御する主体であり、いわば小規模に市場を統制、統治する立場である。その立場の人間がいかにインセンティブ以上の道義を広げたところで、市場は変わらない。為政者はインセンティブを越えるべきである。それと同時に、そのより高度な倫理観の元に、市場を徹底してインセンティブの円環でもって制御するべきである。その報酬として初めて統治者としての正当な対価と誉れを受ける権利を得る。

私の私見では、市場のインセンティブを制御出来なかった統制者は、その背後に高い倫理を掲げていればいるほど、インセンティブの構築を失敗した際の咎を大きく受けるべきと思う。上記の例であれば、「日本語の質」を懸念している態度を示した瞬間から、彼らは業界が保護するものを明確に指し示し、そして期待を追うことに自ら同意した。その立場を堅持し、以後の彼らの正当性と、将来その業界に従事する世代の利益の源泉を構築するという責を明示した。そこまでの明確な意思表示を行ない、しかし市場の「インセンティブ」を構築出来ずに業界を失速させたとなれば、それは彼らに最悪の罰を与えるべきしるしである。彼らは自身の守るべき業界の雇用を守らなかっただけでなく、「日本語の質」という自分が救っていると誇示した文化的価値をも、消極的であれ破壊することを自ら宣言しているのだ。

もしそういった重責を負えないようであれば、業界がどうのという立場を立てるべきでなく「飯食わせろ」と言えばよろしい。もちろん、そのような低能な中抜きに金は払わないことこそが一つのインセンティブである。「飯食わせろ」と直截書くと自分たちに「旨みがない」ので、それを隠して「文化」を盾に取るのなら、彼らは統治者としてインセンティブにしたがって行動している。

参考:http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%AC%9B%E7%BE%A9%E9%8C%B2-%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E5%91%AA%E7%B8%9B%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%A6-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%82%B9/dp/4062161494/mowanetjp-22