真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

この本は読まねばならないと思ったが……

ユダヤ人大富豪の教え : akiyan.com

えーと、引用する場合は自分の意見がその引用量に匹敵するくらいじゃないと駄目なんじゃないっけ。別にいいけど。

で、↑の本は買うつもりになったので上の人の意図は半ば達成されたと思われるが(アフィリエイト経由では買わないので半分は達成されてない)

君が提供したサービスの量と質=君が受け取る報酬額

嘘だ!

「現在の世の中は、経済価値や喜びを与えた人間が豊かになるようになっているんだよ」

これは正しい。だが上の表現とは意味がことなる。

安売りしても売れなかった口紅を、高級品という名目で売ったらたくさん売れたという逸話を聞いたことがある。これは「サービスの量と質」の問題として語るべき現実なのだろうか。

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この問題については、もう一つ、パラメータを導入しなくてはならないのではないか。

  • 提供したサービスの量と質が相手に認識されるかどうか

サービスの量と質を、どう相手に見せるかという問題が存在する。これこそが、世の中に溢れる「びみょーなもの」が生き残る原因であり、上記の正論が敗北する原因となる。

陥りがちな思考が「私ががんばった量=報酬額」で、現実は「誰かに与えた量と質=報酬額」なので不平不満を漏らすことが多い。結果第一というのはそういうことかな。

結果第一、というよりは成果物の見え方が第一だと考えた方がおそらく認識としてはブレが少ない。「結果」は我々が作った「成果物」のことかもしれないし「相手が認識する価値」のことかもしれないが「成果物の見え方」は相手が払う報酬と一致する。まぁトートロジーに近い感じだからな。

「誰かに与えた量と質=報酬額」という等式ですら寂しいのに、現実はもっと寂しい。「誰かが感じた量と質=報酬額」なのである。

「誰かに与えた量と質=報酬額」よりも「誰かが感じた量と質=報酬額」の方が恐ろしい理由を説明しよう。後者では以下の二つが起こると言うことだ。

  • 量と質で勝っているものが負ける
  • 量と質で劣っているものが勝つ

たったそれだけだ。それだけの現実が、多くの人生を狂わせた。狂わせると同時に、救いもした。

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世の中に溢れている考え方の一つに「本当に良いものが最後に残る」というものがある。この考え方は、間違っているとは言わないまでも、その考え方を信じている人を裏切る性質をも持っている。

「本当に良いものが最後に残る」のは、まず結果論である。つまり残ったものが良いものにすり替えられている。本当に良いものなど、我々には分からない。今ある状態が本当に良いかなど分かりはしない。

本当に良いものが滅んだような形跡がある例を採掘することは可能だ。Windowsはどうだろう?あれは、コンピュータのあり方として「本当に良いもの」なのか。大量の妥協の産物ではないか。

反論「Windowsもきっと最後には本当に良いものになるに違いない。あるいはもっと良い、Linuxか何かに入れ替わるだろう」

この考え方の二つ目の問題は「最後ってのはあんたが死んだ後のことかもしれんよ」ということだ。

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投資において「本当に良い銘柄は短期的な振れ幅と関係なく長期的には成長する」という考え方がある。また、平均してみれば世界全体の富は増えていて、それに呼応してインデックスは上昇し続けている。だから長期的にはきっと株価はトータルで上がっていくことになるだろう。

と言っても、80歳のおじいさんを説得するのは無理だろうな。お孫さんに投資してあげてください……あ、そもそも結婚していらっしゃらない?(´・ω・`)

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私が信じる結論は書かないが、要するに「君が提供したサービスの量と質=君が受け取る報酬額」という考え方自体も十分点検しながら使わないとあぶなっかしくてやってらんない、という話である。