真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

成瀬

人気があるっぽいので『成瀬は天下を取りに行く』を読んでみた。なんで人気なのかは良く分からなかった

たまにこの手の小説を読むと、細かい発見を見つけられて学びにはなる。少し前に『推し燃ゆ』を読んだときもそうだった。もう少し、個人的にしっかり「ハッ」とした重たい小説群といえばカズオ・イシグロの数作品。ストーリー云々とは別に「自分には書けないな」と思う一見細かい、本質的な違いみたいのを見いだせた気がする。本作品でも描写についてはそういうのはある。

一方で、どうにもピンと来ない部分の方が多かった。

ピンと来る、というか個人的に良いなと(唯一?)思ったことを先に書いておくと、この本の最後の成瀬パートで「あー、こいつ、思ったよりずっと平凡じゃん」という発見を伴いそうな展開が、強いて言うならこの作品の頂上なんだろうと感じた。多少の近寄りがたさが親近感に変化するギミックがある。

「こいつ、涼宮ハルヒじゃないんだな」と。若干超常的さを感じる特長と、にも関わらず(というか固有すぎる故か)、周囲の普通の人より感性が強すぎて空転する部分が個人的には気に入った。そして、変な試みを途中で「やーめた」しちゃうあたりを突っ込まれて動揺するのもまた、「天才をフィーチャする作品によくある類の天才性」に対するパロディみたいな感じで好感を持てた。その観点で、成瀬は超常的に見せかけてなんだかんだ実は凡庸の枠のキャラという着地に持っていきたい印象を受けた。天下取りに行くのもなんかどっかでスパッとやめんだろ。

小説においては作者の個性そのものを食うところもあって、その意味で学びゼロというのは普通はない。

とはいえ、全体としてはこの小説について「……面白いと本当に思うんかなぁ。これ読んだ他の人」と思うところの方が多かった。

多分よくあるのだろうが、時事ネタをそのままストレートに埋め込んでくるのが(『推し燃ゆ』もそういうところあるんだが)そんなにピンとこない。ある一時期の、自分にも馴染みがある風景をベースに、作者がその時期の時事ネタに感じたことを軸に、主体者の感想が作中の事実に束ねられる……。親近感を上げるうえでは良いが、悪意に捉えると「もう古いよ」という水準にこの作品ももうなりはじめているように見える。

日々の生活圏の発見を越せるような体験、固有味が小説の舞台装置にない。コロナをネタにされてもコロナはコロナだ。私も経験しているが小説に書かれている内容が新鮮とも面白いとも思うわけではない。体験から得たい根幹部分としては力が圧倒的に足りない。そういう舞台装置を何度も言及するもんじゃない……白けるじゃん。そんな感じ

火星でのじゃがいも栽培とか、人に旗を振らせて回路を実現する、とか、そういうSFのトンデモを期待しすぎなのだろうか。あるいは「完璧なオムレツ」の描写に謎の納得感を得るのが小説の愉しみとして歪んでるんだろうか。

『推し燃ゆ』であれば、どこかポンコツ過ぎて自然に読んでいけないところが作品の真骨頂なのだが、「Twitterの作業報告読みに来たんじゃねーんだけどな」みたいな悪いひっかかりが、日常描写があまりに具体に入りすぎているがゆえに感じ取れてしまう。「みなが尊敬していた聖人が、死んだら普通に腐り始めたんすよ」というような、カラマーゾフの兄弟の普遍的であかん感じにはたどり着かない。

多分、大衆小説というのを私があんまり求めてないということとセットなんだと思う。『騎士団長殺し』も『クララとおひさま』も狂気とダンスっちまっているところがあり、私はそういうのを「小説」の基本フォーマットだと勝手に思っているのかもしれないが、もしかすると大衆小説の標準ではないんかも。

うーん、いやでもさ、『少年の海』だって謎のおにぎり信仰と成長中の同級生のおむねにドキドキとかあったんだよ。『成瀬』には、そういう「ひっかかり」がない。あるいは「ひっかかり」がすごく小さい。天下を取りに行く女子の話かと思ったら京大目指す女子かよ。

私自身の現実で出会う「違和」の方が全般的に大きすぎて、主人公と周囲の文脈をそこまで固有のものとして愛でられない。年齢や経験がゆえなんだろうか。でもこれ賞をたくさん取ってるよな?