真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

失言と私の関係

質問したときには前後に必ず動悸が伴う。

私は元々対話が得意な人間ではない。遥か昔、私が小学生だった頃から、人と会話していて相手に適切な言葉を述べるのは苦手だった。姉に毎度毎度やりこめられて、数分後に「あー、こう言えば良かったのか」と後悔したことを今でも覚えている。人に誤解を与える表現を使うのはいつものことだ。今でも口頭で何か高度な議論をするというのは苦手科目の一つである。

ここで書かれている内容を口頭で説明せよと言われても、私は多分半分も適切に述べられない。あるとき私に「直接言ってよ」と要望してきた人がいる。それが私にとってもっとも苛酷なことを要求しているということは全く理解されない。

私にとっては、口頭による即興の説明は非常に困難な事業である。故に文章にして著すという必要が生じる。文章にする過程で、中傷表現を取り除き、特定の人間に対する単なる印象を一般的に適当と言える考えにまで育て、不穏当で感情的な反応が起きないように注意を払うコストが生まれるが、そのコストは私にとって払う価値があるのだ。私の中では、私の対話能力の低さは、文章でそこまで回り道するに値する程度に低いと考えている。

私は同時に(比較的)プレゼンがうまいと言われる。だがこれは発表のための準備がそれなりに為されているから言えるのである。以前ある研究会で発表したとき、ある人がこう言った。「質問の答も全部準備してる感じだった」全くその通り。私はその場ですぐに考えるなんて出来ないのだから、そうする他ない。発表のための準備が相当程度に必要なのだ。

私と会話していて失言や誤表現が多いことに気付く人も多いだろう。実際多いと思う。しかし、自覚していながら回避のしようがない。それでいて、比較的多弁な部類に入る私でもある。

高校時代「政治家になれよー」と同級生から勧められたことがあったが、冗談じゃない。失言生成装置が政治家なんか出来るわけがないではないか。

そういう意識の元で公共の場で質問すると言う行為は大きな苦痛である。失言の可能性におびえつつもそれを回避出来ないのだ。

そうであっても、必要ならば質問するべきであると考えている。倒錯しているが、そうでなければ私ではない。