真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

センスってどう培うんだとか、どう評価すんだとか

見てて「そのアプローチはないわー」と思うことがあるんです。例えば既存のフォーマットよりもデータ集積度の高い新しいフォーマット考えました、みたいな。んで見てみると、誤り訂正とか、元のフォーマットが売れている理由がすっぽり抜けてるんです。んで、質問しようにもネタなんだか本気なんだか分からないので伝えられないんです。でもなんとなーく本気っぽくて、なぜ私がそう思うかと言うと、「売れましたか」「いえ、売れてないです。なんでか良くわかりませんっ」とか言うんです。分かれって

難しいのはそういう人に何を伝えるのが良いのかってことで、私が期待するにそーいうどこか抜けてる人に対しては抜けている点をダイレクトに伝えるのは三流で、抜けているポイントを自力で発見して修正出来るようにするか、あるいはその回に限って抜けているポイントの部分をさりげなくなおした形で本人の功績を厚く讃えて置きつつ良いところは僕ちゃんがいただくとか、手はあるわけです。「角を矯めて牛を殺す」のはよろしくない一方、「放置しておけば?」みたいなスタンスもあまり私は好きではないのです。本当のところ、私は支援射撃が好きそうなんですが、まぁいいでしょう。

教育機関で私が指導する側ならまだやり良いんですが、野良で出会った野良猫にそういう間接支援をうまくしてやるってのはかんなり難しくて、大体そういう類の話を切り出すと大人な方々は「無理なんじゃね?」とか言ってくるんです。うーん、ところであんたの弱点も直してやりたいんだけど、確かにあんたの場合は無理そうだね、という何だかどっちが優位なんだか劣位なんだか分からない応対せざるを得ず、世の中すんげー難しいんですねぇ、なんて思ったり。

私も自分の無謬性なんか信じてないので、慎重に慎重を期してそっと何とかしようと模索するんですが、それはそれで弱気に見えるということもあるらしくって、某日などは「いやー、君には分からんだろうね。私にも分からん」なんて言われてしまって、いや、あなたがハマってる状況のまずさは余裕で分かるんですがあんたのその面子を潰さずにしかも私が間違っている可能性も含めて状況を最良にする方法を模索するのにはその何百倍も考慮時間が必要なんですよ、なんて説明出来ないんですよ。助けてやろうにも、相手が自分の誤りを認識出来る程度にも優れてることがほっとんどなく、それでいてなんだか私の方が認識能力低いと相手が仮定してるのが言葉から動作から分かるのです。

いっそ論破されてーのか、と。でも私はしてやんねーのです。

論破は誰のためにもならないと思います。少なくとも、私にしてみれば、当初の助ける方向から一番離れてる解が、そういう「論破」とかいう、相手を助けるんでなくて打ち負かす方向なのだというのはおそらく間違いないし、そういう認識に私が立っている以上、論破して気持ちが軽くなるってこともないんで。

もっと中立に物事を見定める程度に分別があればもっと助ける瀬もあるんですが、それならそんなところでハマらないか。

タリブ助けて。