真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

日本で移民とかやっちゃうとおそらくおしまいなような

アメリカに来て大層微妙なサービス群に揉まれてうぐうぐ言っているもわですこんにちは。いやーほんとかないませんね。車上荒らしもサービスのうちです。

アメリカに来て良く感じるのは、自力で調べたり、聞いたり、金払ったり、しないと標準が微妙なために結構微妙なサービスに浸されるということです。良く言われてるんじゃないでしょうか。

シリコンバレー出版記念パーティー | On Off and Beyond

まずこのエントリーでの「バカ」の定義。それは
「面倒がったり、人の話を鵜呑みにしたりして、自分でちゃんと情報を調べない人」
のこと。こういう人が、とことん「バカにされる」のがアメリカであるのォ、というのが私の感慨である。ここでいう「バカにされる」とは、
「高い料金を吹っかけられたり、本当は存在する素敵な何かを提供してもらえない」
ということ。

言わなきゃ何とかならないという状態ってのは、別にアメリカに限ったことじゃないんだろうなぁと。相手がどういう文化を持っているかのについて共有している情報が少ないときには、邪推するほうが有害で、だから「何かあれば早く言え」というのが次善の策になるのだと感じます。で、問い合わせると平気で嘘つかれるんですがどうしましょう。Hertzのことです。

私の実家の近くは私が子供のころから大層ブラジル系の移民が多い地域に割と近く、でも私はその地域にはあまり近づき(け)ませんでした。理由は治安が悪いからではなく、そのあたりで何が起こり得て店では何をするのが良いのか分からないからです。「ぶらじる語」の看板の店に敢えて飛び込む理由もないし。

私がいた小学校では、ブラジル系の転校生の男の子が来る度に割と「誰を殴った」だのどうだのというトラブルを起こしていたのを記憶しています。それは、そういう人々がそもそも暴力的だったというよりは、日本人から見て暴力的に見えるということなんでしょう。彼らからすると、言葉が足りない状況で日本語で結託してヒャッハーしてる日本人に対してコミュニケーション出来るツールとして次善のものがとりあえず殴ることだったのではないかもと思います。なにそれこわい

「〜〜である」と「我々から見て〜〜に見える」の違いはかなり重要です。日本のデフォルトで、例えば社員が働かなくても養える前提には、素行が少々悪くても付随品を盗みまくって他の人の生産性を「落とす」ことをモチベーションにする人が少ないってことはないかなぁ、なんていうのと似たようなもんです。すみません書いてみましたが似てませんでした。

「トイレットペーパーがすっごい勢いでなくなるので公衆トイレでは紙を持参してください」なんていう状況に日本がそんなにならない一因は、日本のデフォルトというのが日本という国の中で国民に定着しているからでしょう。定着するまでには相当かかってますが、定着した後は快適さが残るかもしれません。ある特定の時刻にある特定の方向に向かって挨拶をするのも結構みんなでやれば快適でしょう。朝礼のことですよ?

ちなみにこの前カードゲーム屋のトイレに行ったらダンボールに入ってるトイレットペーパーの山が置いてあり、別にトイレットペーパー何か議論の中で重要ではないのだと感じました。

移民が一般的な地域だと、その類のコンセンサスを現在の日本ほどには取り得ないような気は毎度します。深夜のコンビニ店員の態度が微妙というときに名札見ると「きむ」と書かれてたりし、だからガイコクジンはダメなんだぜなんて言ってる人もいますが、悪く言えばその程度で済んでるのは移民政策が割と大々的に行われていないからだと感じます。ちなみにマッサージの後に「オキャクサン、モットキモチイコトアルヨ」って言ってくるのもガイコクジンだったりするんじゃないですかね、知りませんけど。

ちなみに私が初めてアメリカのマックに入ったのはシアトルでの出来事で、タトゥー掘った浅黒いおっさんが「ねえええくすと!」て叫んでるようなところでした。日本はまだましなんじゃない?

仮にここで、国力増大と言って海外から流入する人々を歓迎するとすれば、それによって来るのは日本の文化を尊重する人ばかりではなく、それを食い荒らす方々も混じります、相当数。特にアジアは近いので相当多数来るでしょう。見た目似てるけど考え方が全然違いますし、公共物を丁寧に使うなんていうマナーを日本人ほどにも守ると期待出来ません。見て!あの自転車ブレーキどころかハンドルがないわ!

そもそも私はどういう人に長期滞在用のビザとかが許可されてるのか分かりませんが、確か今のビザの基準とかって結構「専門的」な人を優先していたのではないかと記憶しています。移民政策の改善というのは「専門的でない人」もOKとみなすことなのでしょう。

釣銭の返ってこない世界と小銭のない世界〈エジプト旅行2〉 – 橘玲 公式BLOG

社会学者の山岸俊男は、『安心社会から信頼社会へ』などの著作で、家族や共同体の身内しか信用しないムラ社会を「安心社会」、見知らぬひとでもとりあえずは信用してみる社会を「信頼社会」と名づけた。山岸によれば日本はまだ安心社会で、それに対してアメリカなどの移民国家は信頼社会のルールが根づいている。そしてグローバル資本主義の世界では、ビジネスチャンスはムラの外にしかないのだから、“よそもの”とも積極的につきあう信頼社会に制度的な優位性があると論じた。

優位が快適とは限らんのですが、なんというか書いてあることは分かる気がします。ああ、橘の人のその前後の主張はスルーしましょう。

日本の方が住みやすいという何か自然な傾向と移民、あるいはふつーにいる外国人がそんなにいないという状況は、なんというかすっごく関係しているような気がしつつ、最近の話を聞くと日本人が集団で外部からの人々を受け入れないことが日本人にとっての住みやすさを増していつつ、こくさいきょーそーりょくを上げられない一因になっており、こくさいきょーそーりょくを上げようとするときっと住み辛くなるんだろうなぁと感じています。

というわけで今日はここまでです。おまけもありますよ!

いよいよ消費税が切り上がる – アゴラ