真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

思想の劣化は進む

ネット上で、ワンミスによって自分に向けて跳ね返ってくる非難批判の量、あるいは投稿後・行動後に控える潜在的な精神的負担が半端なく増えている、気がする。

発言の揚げ足取りというのは毎度良くあることだし、個人のレベルでそれを検出する確率が上がったわけじゃない。ただ、瑣末なところにばかり目がいくタイプの人がネット上に急激に増え、見つけ次第ピンポイントに「鬼の首トッタァァァァァァァァァァァァァァァァ!」とか毎度毎度やってるのをここまで頻繁に見ると、単にそれを傍観している私でも、消極的にであれ対策をとらなければならないと思う。要は発言・行動には「超」「超」気をつけましょう。

新規参入組であるもっと若い人等はもっと単純に、怪しいことは公開スペースで一切やらないようにしようと思うかもしんない。「怪しいこと」をやらない方が良い。素晴らしい。

ところで、「怪しいこと」は新しいことかもしれない。新しいイノベーションの芽が欲しいのなら、初級組への不必要な集中砲火は「何もしないで相手をバカにする方が良い」という人世訓を人々に与え続け、その流れを助長する。「怪しい」とみなされる比較的「新規性が高い」事例に対して手を差し伸べるのを「いつも」躊躇するところまでこの雰囲気が進めば、良く語られる「衰退への確実な一歩」を間違いなく歩み出している。

非難批判する側というのは、特に既存の慣習に対する侵犯事例に関してはほぼノーリスクに相手を叩ける。「今までこんなことはなかったので過去の慣習を維持するために叩きましょう」ということだ。これは実に筋が通っており、また既存の人々の気分の良さを実に増幅する。一方、過去の新しいこととは往々にして既存の慣習に対する侵犯事例から始まる。古い人からして「うっ」と思う類の。時としては微妙に法律に掠りかねないなぁなんて思うような。

法律違反はいけないっ

一方、過去に制定された法律が、まさにこれから新しく現れてくるようなタイプの行動を支持するなんてことは、少なくとも毎度は期待できるものではなく、もし本当に叩くのであればその前に、そもそも法律、社会の規律が何を前提として何を守るために存在し、それが以後どういう流れの中で生きることになるのか、あるいは死ぬべきなのかを、まず「最初に」「おおざっぱであれ」確認する必要がある。そして他方、行動者の環境にその過去の規律などがうまく当てはまっているかどうかを毎度確認しなければならない。特に、軽はずみな批判非難が自然と推奨されていく現在の流れの中であれば、なおさら、優勢な側は初手には慎重になるべきで、「批判非難をするのであれば、それをするに当たっての負担を課すべきである」というタイプの重っ苦しい規範を押し付けるのが利にかなっている。初動時に気をつけるべきは、その拙速が極めて悪質な類の証拠隠蔽やとんずらの防止を優先しすぎて、最終的に新しいものを受け入れる寛容さを失うような流れになっていないかを、やはり「最初に」「おおざっぱであれ」確認することだ。今起きていることはむしろその真逆だ。生まれて間もない赤子にバットで殴りかかるのが推奨されていて、それでいて少子化を嘆くようなバカなことがあってはいけない。