真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

表層的な現実の見せる人間関係の裏表

表面的に相手を尊重しているかのようにコミュニケーションを取れば、とりあえずは角を立てられることのない社会である。「腹を割って話す」という行為自体が忌避される以上、相手の内面がどのようになっているかは互いに分からない。

皆、ブラックボックスの外からレーザを照射して中を予測することで相手を測る。「中身を見せて」という主張は気持ち悪がられ、排される。それがある時期に「ルール」として定着したようだ。中年以上の人々が「腹を割って話そう」と嬉々として主張するのを見ていると、この「ルール」は最近のものだと考えられる。私が生まれる前か、物心がつく前ではないか。私は腹を割って良いケースを社会に見出したことがない。期待したことなら何回もあるが……

人間関係において熟達している人は、相手からのレーザを自分のブラックボックス内でどう反射するかを決める能力を持つ。一方、相手の反射能力を無効化する強力なレーザ照射装置を有する人もいる。この能力には段階があり、例えば誘導尋問というレーザを華麗にかわすことが出来る人とそうでない人という差がある。これはいわゆるパワープレイ(政治力対決)の武器の一つとなる。

個人の持つブラックボックスには階層があり、中身のどこまでを公開したがるかは人によって違う。レーザを反射するに優れた人が敢えてブラックボックスの最奥を開放することもあれば、反射能力不十分でも浅い階層までしかレーザの侵入を許さないと主張する人もいる。前者は戦略家であるだろう。後者はその試みに失敗するだろう。

レーザがへたっている人にとってこれほどつらい世の中はない。その人のレーザは相手のブラックボックスのごくごく浅い表層までしか届かず、その階層までであれば「取り繕える」ブラックボックスを持っている人が世の中では大半なのだ。だから、レーザがへたっている人は、表面で反射してしまうそのレーザの反射結果から、自分はその人に良い思いを持たれているかもしれない、と勘違いする可能性が高く、そしてそれは相手の情報操作のたまもので、いざその自信をそれ以外の悪意をも辞さない人々にぶつけようとしたとき、堪えられない屈辱を受ける。

昔はこうではなかったのではないかと予想する。「腹を割って話す」つまり「ブラックボックスのレーザ反射装置を止める」という強制力がコミュニティ自体にあったからだ。例えレーザがへたっていても、そこそこ生活は出来ただろう。むしろへたっている点を気にしない分、変にレーザの照射能力に高い人より活躍出来た可能性が高い。しかし時代は変わったようである。

攻めるべくは、本人のレーザがへたっていることではない。レーザがへたっているだけでほとんど絶望的な戦いを強いるようになった社会、その人のレーザがへたっていることを適切に指摘しない周囲の人々、そしてそういう人々が当たり前であるというコミュニティに原因があると私は考える。それら個々の要因が悪意を持っていたわけではないが、だが原因はそこにあるのであり、悪意があろうがなかろうが原因の有無とは関係がない。

だがこれはこういうことなのだ。

「真の犯人は誰でもなかった」地獄 - 真 もわ爛漫

私は誰かを攻めるつもりもなければ養護するつもりもない。自分を攻めるつもりすらない。自分が原因の一部であることすら否定しない。だが同時に被害者でもあった私は、そのことについて、ことさら感情を逆撫でされることもなくなってきてしまった。もはや改善手を提案するには諦め過ぎているのである。