真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

あらゆる矛盾は、一度極限まで行く (投資家 ジョージ・ソロス)

全体的に良いと思っているものを擁護する立場に立つとする。仲間はやはり「全体的にそれが良いもの」だという派閥だ

ふとあなたは、自分の立場にも一部不安定な部分があることに気づく。同僚に言う。同僚の多くは「それは大した問題ではない」と言う。

実は同僚はそれぞれ、不安定な部分があることには気づいている。ただし、自分たちの立ち位置を揺るがす何者も、擁護者の多数派は許しはしない。擁護派の集団に属する同僚の多くは「それは大した問題ではない」と言う。

ありがちな勘違いは、問題があれば誰かが気づくし、必ず気づくとすることだ。しかしそれは少数派であり、しかも問題の全容に気づくわけではない。ある人は、のちに自分の擁護する立場を破壊する根本問題の部分問題Aに気づく。この部分問題が全体に波及するとみなすには、別の部分問題Bと組み合わせる必要がある。しかし、その二つの部分問題が擁護派の中で組み合わさることはない。それぞれの小問題だけを見るのであれば、その問題は用語するべき対象からすると特に大きな破壊要因とはとらえられないため、同僚の多くは「それは大した問題ではない」と言う

同僚の多くは「それは大した問題ではない」と言う。

片方の部分問題Aを把握しているものも、もう片方の小問題Bを自分の問題Aと組み合わせるための動機は持ちえない。擁護派の中に埋もれている限りにおいて、擁護する群れがそれ(B)を問題と言わないのなら、取るに足らないだろうと思う。片方の部分問題を把握する擁護派の一部は、もう片方の問題を認識する擁護派の一部と情報を共有する機会がない。同僚の多くは「それは大した問題ではない」と言う。その多くには、小問題Aを共有する同僚も含まれるのである。

矛盾は後から露見したときには容易に組み合わせることが出来るため、経験の浅い歴史家はifを語りたがる。だが同時期に擁護派から矛盾の組み合わせによる大矛盾を検出するのは、手遅れになるまでは難しい。仮に気づいていても、最後の段階まで、擁護派は矛盾の最大原因には焦点を当てる動機に欠ける。その最大原因を、最後の最後まで、同僚の多くは「それは大した問題ではない」と言う。