真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

サマリー文化に対抗する

なんというか色々ネットの話を聞いていると、「つまり、どういうことか」を聞くのが流行ってるんだと感じます。例えば本について言えば、サマリーを参照して元の文献を見ない、といったことですね。

状況に応じてサマリーの方が優勢であるケースと、そうでないケースがあるというのが私の認識で、そのバランスをどう取るかが学ぶ上での大きな柱の一つになります。もしサマリーを参照するべきでないところで参照すれば悪いことがおきます。サマリーを参照するべきところで参照しなければ悪いことが起きます。

まず参照するべきでないことについて。

数学の公式について例を挙げましょう。高校時代から大学に到るまで、私が筋が良いと考える人からは「公式は何故そうなるかを証明できる程度に理解せよ」と勧められました。一方、中堅以下の大学で四苦八苦する人は、公式表を覚えることに集中していました。

今はもうどうなったか分かりませんが、東京大学の入試問題は明らかにこの前者の立場を理解しており、何度もそういった基本的な、中堅以下の人であれば「サマリーで済ませるような」部分を問題として取り上げています。「円周率は 3.05 より大きいことを証明せよ」「加法定理を証明せよ」など。今も増えているかもしれません。こういった問題は、簡単と指摘する人と、そうでない人を明確に分けます。

数学の例と「サマリー」との間の距離はいつも一定ではありませんから、必ずしもこの指摘は明らかではないかもしれません。学術論文の中には「サーベイ論文」というものがあり、これは明らかにサマリーですが、ではそれが「悪いのか」と言われると、そうではないと私は主張するべきでしょう (もちろん論文の質によりますが)。おそらくこの違いについて、もしくは自然とどういう住み分けがなされるべきかについて、筋のよい方であれば存分に自力で考えられるのではないかと思います。

参照するべきことについて。

こちらのデメリットは無駄な「時間」となります。これもまた、多くの忙しい人々にとっては危急の問題です。上記の「サーベイ論文」をこのコンテクストから考察すること「も」出来るでしょう。

ところでソフトウェアエンジニアが絶対に守るべき法則について書きましょう。速くて間違った結果を出すプログラムではなく遅くとも正しい結果を出すプログラムを書け。誤差範囲内に収めることもまた「正しい」なのであれば、エンジニアとしてこれを否定するのはなかなかに難しいでしょう。

さて戻りまして、時間を節約して二流未満の理解を得るためにサマリーを求めるかどうかについて、私としては若干、サマリー選好の強い現在の流行はあまり好きでないことは理解いただけるかと思います。この部分についてさらに言えば、私もサマリーをうまく利用するときとそうでない時があり、しかし不思議なほど、ネットのサマリー文化は「数学においてサマリーを頼る」傾向が強いのです。

どういうことか。分からないので分かるところまで、覚えられるところまで簡単にしてという要求です。本質的に簡単なことを難しく見せかけることについての是非はおいておき、本質的に難点を含む問題についてそれを省くことで良しとする文化が旺盛であるということです。

これは製品を作るときに顧客に提供するものとしては正しいのですが、真相を得るための態度としては正しくないように私には思われてなりません。円周率3を笑っている場合ではない。サマリーとはつまり「πってなに」に対して「3」と答えることと紙一重の行為です。近似は適切な範囲以上まで行うべきではありません。願うべくは、πのまま扱えるよう技量を求める方向でしょう。