真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

共有するものを必死で求める時代、筋の良い共有物を探し続ける時代

高松信司監督が語る「テレビアニメの時代」の終焉 - Togetter

たとえば、昔のように「ハイジ」や「タッチ」や「ルパン三世」や「北斗の拳」みたいな、「普通のアニメ」がTV放送で広く視聴されて国民みんなが知っているみたいな事はもう起こらないのかもしれない。

以前にゲームでそういうことが起きてるって話を書いたような気もするし、アニメについて「異常値」を検出しない限り見る価値がなくなっているなんていう話も書いた気がします。つまり白い液体のことです。

自分の興味のニッチを追求するという贅沢は、全体で共有する「幹」としての基盤があるときの「枝」のレベルでとどまるからこそ魅力なんだというのが私の印象です。今はみんなしてその「幹」が弱っていくのをまるで喜ばしいことのように語りますが、いざ「幹」が消滅したとき、どうやって相互にコミュニケーションを発達させるのかについての見通しは実はあんまりないのだというのが私の実感。

今後、これまで「幹」にしてきた大衆向け、大多数を一緒くたにしたタイプのメディアとかいうのは再構築されることになるでしょうし、そうなれば元の機能はまさに当時暗に機能していた風には果たしません。で、案外一般の方は、それらがどういう働きを「自分の中で」していたかについては無知だったりします。一般論として語られるメディア論の真似事みたいなのは知っていても、実は自分を構成してきた要素とその「幹」の具体的な関係には思考は及ばないわけです。

それがどんだけ重要なのかも、実は分からない。

私は一般に検索とか調べ物が苦手で、調べるといつも他の人が典型的に探り当てるマテリアルと何か違うものを手中におさめてしまい、たしかにそれはあるとき才能なんだけど、趣味のコンテクストでは周りで誰も遊んでないので話題にすらならないという問題を抱えるのでした。偶然というか時の流れに身を任せて運良く見つけた原則は、共通するに足る素材を提供する「幹」になるような母体を、嗜好がバラバラになっていく世間のなかから注意深く見つけ出すという処世術なのでした。

サークルのその時その時の流行に、好きでもないのに付いていく気になっていたのは、振り返れば何かそういう恐怖感があったんでしょう。しかし今になってみれば提供されたものには良い資産も含まれてますし、実際今の職業の遠因は間違いなくサークルです。サークルから学科に情報提供元、つまり「幹」をある時期に移転したという点は重要ではありますが (ちなみにサークルの話がなければ心理学を専攻していたでしょう)

人によってはコンピュータサークルの代わりに財務事情を測定するようなゼミの一員として個人起業に対する抵抗感を削ぎ落とすような機会を得るという人もいるでしょうし、一方体育系サークルで酒飲んでたら就職難で今困ったという逆向きの人もいるでしょう。

大衆全体がある一定の「幹」に寄ってすがっている時期には、ハズレというハズレは案外引きにくいんですが、今はそうは行かず、そしてその自分の価値観や情報ソースとなる基盤の選定で外すと、本当に痛い目に合います (「そうはイカず」「痛い目にアイマス」になるIMEェ)。

趣味レベルの話であれば、最高のタイミングで全員が「4人目の空きが!」とTLにぶち流すニチアサを取り逃がす程度ですが、それが人生に至れば、ある人は卒業時には起業家の基本修行が終わっている一方、ある人はパチンコの箱を運ぶのに最適化された人生観を学んでるなんていうことになります。発展途上国における機会の不平等と全く正反対に、豊穣さの中の共通基盤のなさから、結果として幸福の標準偏差が大きくなってるのだと。

以前『富の未来』という本について書くか話すかしているときに「そもそも富ってなんだよ」と噛み付いてきた方がいて色々と考えたんですが、富ってのは幸福「ではなく」幸福度とかいう測定値が仮にあったとすればその分散的なものを大きく横に引き伸ばす可能性なんじゃねーかとか今は思ってます。モノがない時代、確かに貧困で喘ぐ人は多いでしょうが、精神に異常をきたして首をつる可能性はむしろ低かったりもする。上方向に素晴らしい人生を見て、同じ時代、同じ島国にいて、なんで自分がうまく行かないのかと余計に悶々とする (だからイカないじゃないでゲソ)。『貧困大国アメリカ』なんてのも読むと、ますますそんな思いを抱いたりします。

こういった「ものが溢れてれば幸せになるなんてのは嘘なんだぜ」っていう話は今の時代に特有のことじゃなくて、私が知っている少ない情報源のなかでもヒルティ (『幸福論』)なんか、毎度「あの貴族婦人どもの欝っぷりを見てみろよ。やることないから困ってるぜ。いいからお前ら仕事しろ」とヒャッハーしてて、選択肢が増えたときに何を基盤にするべきなのかについて自己の思想とかがイカに重要かを考える必要があるのだと考えなおさせられます (もうイカでいいじゃなイカ)

時代はさらに前傾姿勢で同じ傾向を100倍くらいの速度で推し進めていて、貴族婦人はせめて金持ちだったのにお前らといったら金もないのに悩んでやがる、みたいな状況になる可能性は非常に高いのだろうと感じます。単にでぃばーしてぃが高いからって幸せじゃないんだぜってことで、とりあえず全力でニチアサを見ることからお勧めしつつやはり期待とは裏腹に揚げパンが盛り上がらなくて本当に残念なのです。