真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

思想と行動

ここ最近は世界全体で行動に対する評価が思想に対する評価を大きく優先するという状況が起きているそうで。

思うにツールというものは、発見されてからしばらくは人の精神的成長を妨げ、むしろ退行させる効果があるような気がするのです。そして今は人類史において残る偉大なる新たなツールが、無節操に利用されている最中で、それがどのような限界を持つのか全く考えずに使うのがクールだとみなされているようですね。

ところで少し前に似たようなことがあり、パーマンショックになったそうです。もう少し前ですと、LTCMなんでしょうか。エンロン?というか同じ業界で二度バブルってのは、そんな珍しくないのかもしれません。ああ、「パ」じゃなくて「リ」でした。

ツールの強さってのは50年では測れません。100年の単位以上のスパンでその力の限界や、ツールの全体最適な使われ方が模索されることは稀ではない。だから、個人が「これは20年前にもあったなぁ」とソファーに寝そべって余裕ぶっこいてるってのは、実は何にも語ってないようにも思えます。そういう余裕が消し飛んだ事例を、私は100年以上前の人々の記録、を丁寧にまとめた最近の偉い人、の本の切れ端の書評から、読み取ること、がたまに、出来るのです。

再帰性というものが、世の中では一般ではありませんが、あります。何か人が認識すれば、認識が行動を加速し、行動が認識を加速し、彼らがその加速の再帰構造の最初期に仮定した基礎的構造の耐久性を大きく超えてしまうまで、再帰が止まりません。いかなる静的ツールも、人間の再帰の動的破壊力を超える許容度は持ち得ないように思われます。基礎的構造の「どこ」が壊れるかが予想できない、その点において、未来の態を見切ることは、そう容易ではないですが。

再帰を止めるのもまた、人間でなければなりません。再帰を止めるには、ツールやそれを行うツールではなく、ツールのための思想が必要なのです。ここには、再帰しえない相互構造があり、それは扱うのが概して難しい