真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

「8番出口」に思うこと

「販売開始された」と聞いたときに一瞬なにかの勘がひらめいてささっと終わらせた。

んで、このゲーム、個人的には「ループ回数を表すカウンタがカウンタと気づくまでが本編」という印象があって、つまり「8回ループする」というルールがわかった時点で後は惰性だよなー、という気持ち。

私は最初のうち「2番出口……?異変だ!」と引き返して「???」みたいに混乱してたのよ。「異変」の定義がとうしょは不明だったので、例えば歩いてくるおっさんの後をつけるとか(おっさんの歩き方に異変があるかもしれんでしょ)、点字ブロックが左から何ブロック目を取っているかとか、そういうのを探していたわけ。ポスターが多数貼られていて扉が複数あるメイン通路的なところだけでゲームをするイメージ自体を発見するまで。そこがわかってしまった時点で、正直間違い探しゲームでしかなかった。

それはそれでゲームコンテンツとしては完成されていたので個人的には満足したんだけど、最初の「なにかの勘」というのはそこではなくて「そういう楽しみ方」をスポイルされる可能性を感じたんだと思う。

速やかにゲームがバズって、以降ライブ配信とかでプレイしている人を見ると、いやまぁ盛り上がるは盛り上がるんだけど、基本ルールを理解した上でプレイしているので「……えーと?」という気持ちになる。リアクションで楽しむのはいいんだけど、自分が感じたゲームの本質とはズレたなー、という。何かこう、界隈全体から、お気軽にゲームを感じ取ることに対して若干素通りできない「ショートカット」みたいのを感じたのだ。

ロンダルキアって聞いたんだけど?」みたいな話もあったんだけど、そのyes/noの会話に突入している時点でゲームコンテンツとしては自分の中で終了しているので、その会話にそもそも納得感はないのであった。

おそらく、大昔に「ロンダルキア」を生で感じた人と今の人は必須違うゲームをしている。先日SFC版だけどロンダルキアに到達したとき、随分とまぁ薄いなと思ったものだった。FC版のほうが全体として不条理だったというのは聞いているが「聞いている」がポイントなんだと思う。

当時のFCゲーは自分の持っているキャパでクリア出来るかどうかがそもそも不明瞭なことが多かった。(ガキにはとてもではないが無理な)マリオ2とか高橋名人の冒険島とかたけしの挑戦状とかレーサミニ四駆ジャパンカップとかの中に(クリアできる)ギガゾンビの逆襲とか混じっていて、キャッスルエクセレントはどっちなんだろうと思う時代だったのだ。クリアチャートとノリが安易に共有される世の中のゲームの楽しみ方はなんか収斂してるなぁ、と思う。

最強の雑魚という話題ででやすいガルバンゴルは単体で致命的な野郎ではなかった。ラストダンジョンのショートカットに気づくか、「あい」に気づくか、というのがインターネットのない時代にはなかなか「違った」のだった。

ゲームの遊び方は人それぞれなので、やっている人に直接言うって話はないと思うんだけど、少なくとも自分の中でゲームを語るのは以前より「難しいなぁ」と思った。