真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

エンターテイメント周りの「正しい」生産消費とはなにか

ここではゲームをやって感想を述べたり自慢したりするサイクルを生産消費(生産=状況を外部に共有する、消費=ゲームで時間を浪費する)と呼んでいるだけで、要はいつものアレで「正しい」ってなんだろうな、と思ったということです。

直近 (2024-04) のネタで言えば神域リーグでまた千羽黒乃師匠が選ばれませんでした。半分なんとなく予想がついちゃった話でもあります。

実は去年あたりに「神域は茶番だなぁ」と白けたところがあって、多分その路線が今後も続くし、ある意味では上級系VTuberは誰かは呼ばれるけど誰かは呼ばれないのです。それはほんとうの意味でのガチなドラフトということでもなく、良くも悪くも談合でテンションが設定されている、そういう企画なのだ、という割り切りの帰結でありましょう。だって公式もガチイベントだとは称していないし。ガチイベントじゃないのにドラフトってなんなんだってなるんですけどね

また同じくらいのタイミングで、今度は陰蜂のノーコンテニュークリアというのがありました。こちら、縦スクロールSTG筋での正真正銘の快挙だと思います。というかまだやっている人がいたんだ……。パチパチ

ただ、一方で有名VTuberの兎田ぺこらのママが配信に参加するだけで多分数千万以上のお金が動きますし、スイカとか8番出口でわーきゃー言うほうが市場が動き、皆は楽しいと思うのです。

単純に言えば「すべてを一緒くたにするな」ということなんですが、これらは世間の時間を取り合うという意味では正しくエンタメだし、私の周囲で平然と混在するイベント群でもあります。そしてバラバラそうなんだけど、何か関係しているところもあるように思います。ここは私が大嫌いなサブカル系の論評にトーンを近づけるのも辞さずにあえて考えてみたいのです。

まず、この中で一番「本来」の評価を得るべきは千羽黒乃さんだと思います。投入時間の桁がおそらく違います。しかしずいぶん冷や飯食らってますね。次が陰蜂。難易度だけでいうとおそらく陰蜂のほうがすごいと思うんですが、対人でないものはパターンの累積の部分があると私は思っていて、収束はすると思うのです。収束に向けて資力、時間、他の愉しみが仮にあるならそれを捨てる覚悟、それ以外の将来をある意味では捨てるのです。

「捨てる」覚悟なのに、たまにエンタメ枠でお金を儲けられる瞬間があります。麻雀は多分アベマあたりが焚き付けたあたりからこの枠が急速に成長しました。雀魂も追い風です。ただ、これは努力をした側の人は狙えるものではない。

言い換えると、千羽と陰蜂(プレイヤーの名前使えよ、というのはさておき)はどちらもある種のエンタメ極める人の枠で、一方は儲けと注目を得て、一方はちょっとした界隈が拍手をして終焉するやつです。生活を担えるものでは決してないでしょう。

私の感覚でいうと、消費の性質はどちらも類似しているんですが、生産の帰結が丸々違う点が興味の対象です。言い換えると外部から見た際の「扱い」について、麻雀には麻雀業界自体の勢いがあって、結果として同じ消費がより儲かる生産につながっているのが千羽、あまりに時間が経ちすぎていて消費としては極めて高度なのに何も経済的に跳ね返らないであろうのが陰蜂です。

そこで千羽さんですが、しかし彼女、麻雀業界の「ガチ」枠に近いのにMリーグには入れません。あれ、オフライン前提で顔出し前提だと思います。そこを直しに行くとは今のところは思えませんし、いまの現状での分析に終止することにします(個人的にはどこかでMリーグ的なガチ枠がVを招致する未来もなくはないと思いますが、麻雀業界は結局はバブルの中でのアレなので……)。

言い換えると、ガチ的な文脈では程度の差はあれ千羽さんは別のレイヤで限界に達している。陰蜂よりもこの件でもにょるのは、人気が出ている段階だからですね。話題にもなりやすい。本人が完成されています。相当地道な方です。

陰蜂が「生産方面では周囲3cmに満足されれば幸せなガチプレイヤー」であり、千羽さんは「生産方面でも完成されているガチプレイヤー(だって生活に関わるじゃん)」です。

実は筋の良さだと前者だと私は思いはじめました。「顔を出していないこと」「本性を明かさないこと」に市場がデバフをかける瞬間があるようす。

Vという性質がここで入ってきます。アイドルに近いんですよ。つまり真のガチとしての一本評価の前にキャラ立ちが先です。真のガチがネタに入るのはみんな喜びますが、真のガチが先です。千羽さんはVが先です。実のところホラーゲーで叫んでいる方が自然の態には近いんです。吉田沙保里選手がおもしろ企画に行くのと方向が逆です。女性雀士が容姿でわーきゃーも順序が基本逆です。

Vが先なんだけど、真のガチの人と等格か、下手すると一部と比較するとそれ以上でしょう。麻雀は一部運ゲーであるため正確な評価はしないしさせないですが、Mリーグにいても普通に打てるのでは?と思わせる基礎の実力です。後は顔出し配信であり、その場の雰囲気の話があると思いますが、千羽さんの中の人はリアル麻雀側の人ですし大丈夫な可能性が高い。

生産消費の性質が「半端」だということになってきます。片側はVの性質で、こちらが主にならざるをえません。そのうえで麻雀。麻雀のガチといえるプロ雀士の協会としてはガチを先に出す人を優先したいでしょう。自分たちのルールがあります。顔を出せ。

「神域」とかはガチとカニバらせない方向に振ったものだと去年思ったわけです。すると、千羽黒乃さんなりにゅうにゅうなりは非常に変なところにいるのでやりづらい。ある意味では相手のラインを攻めてこないもこもこさんやにいなさんのほうがポジション的にはポジティブでしょう。

ガチの協会からすると、イカゲーや8番出口や、そして麻雀に興味を持つガチ側に隣接しないVのほうが使いでがあります。お金と注目も持ってきます。

これ、「消費」の性質が「生産」における事情にひっかかる展開になっていると思います。「消費」の練度が抜群に高いから「生産」の方も好調になるとは限りません。「生産」を先に考えている界隈から逆算して「消費」するという順序が常に維持されるのでしょう。「消費」を優先するなら、どこかで確実に同じ界隈で「生産」中心の考え方を維持している人たちに道を譲らざるを得ない。

千羽さんについて言えば「麻雀」と「V」を「消費」することを通じて「生産」活動をやっています。この練度はかなり高いと思います。努力もしている。ただし順序が根底で間違っている、とも言えます。

「麻雀」を「生産」中心に考えるのがMリーガー。「V」を「生産」中心に考えるのは誰かというと、これは企業系Vもそうですし、そもそも生計立てることありきでキャラをバックフィルする系統の「V」です。中身の人が出張らすぎないこと、そのうえでvirtual 実質的であること。

「生産」を軸に考えて最終的にマミーを出す、その上で過度に危険な「消費」にしないバランスを確立していたのがぺこーら陣営です。どこまでも計算が逆方向で走ります。

Vとしての「消費」(つまり演じること)が正しくなるかは最後の話でしょう。割とそこまでいけずにリタイヤする人は多そうです。仕事だからね

エンターテイメントにおいては「消費」がたまたま「生産」に繋がることと「生産」に直結する「消費」を行うことは根本的に異なる活動なのかもしれないです。

もちろん「消費」が始まりで(外部の要因でたまたま)「生産」が順調というケースはなくはないでしょう。プロゲーマーというのは概して私はそういうところがあるように思います。そのゲームジャンルがたまたま盛り上がるということが必要。それでも、1億の賞金を奪う大会があるジャンルでも、そんなに儲かっている感じはしないです。

歴史やらなんやらでバフがもりもりの将棋とかはわからんでもないのですが、話に聞く奨励会の事情などを考えれば、あれは「生産」が先にくる覚悟を持っている人々ですね。そういう「生産」者としての資質ありきの人員を配置する生産サイドの文化そのものが母体です。

タイトルの話に収束させるとすると、「正しい」生産消費というのは

  • 儲けを安定させるなら「生産」を先に考えよ
  • 「消費」を「生産」に結びつけるなら「せいぜい小遣い」くらいを最頻値と考えて上を目指しすぎるな。「生産」を先に考えている人々にいずれ喰われる

という性質をきちんと認識したうえでやる、ということでしょう。

9割以上のエンタメの消費者は生産についてこの感覚を全く疑わないと思います。要はXで絵をポストする際に儲かると思ってないはずです。ただ、今はたまに広告案件とかがくることもあるようです。その際に、それを生計を立てるための主要な戦略に転換させるのは上記の検討をしてからにしよう、ということでしょう。「生産」をつきつめて考える、ということです。

どういう業界でも、生活を行えるということは「生産」を主体的に考える人々がいます。自分がその最初の最初にいるのでなければ(典型的にはプラットフォーマー)、「消費」のロジックを突き詰めて「生産」の量を増やそうと思ったりしないほうがよさそうです。むしろ、下手くそ麻雀初心者Vの如く狡猾にやることです。麻雀にほんとに興味あるんか?ないでしょうね。あの人々はVとしての「生産」のロジックの中で麻雀をポートフォリオの一つに組み込みたいというだけです。

感覚的にはここ1年で千羽さんは最強とかそういうのではなく「コーチ役」のスタンスにシフトするのかなと思います。ある意味では「生産」的です。基底の強さを否定するひとはいないでしょうから、それでええんじゃないか、とも思います。ただし見ている側としては、頂点極めたフラグもない「コーチ」をそんなに応援したいかな、というのもあります。

 

麻雀界隈

「麻雀」については、だいぶまえ(あれ、もう2年くらい前?)に自分の中で区切りついたので、プレイしたり勉強したりという機会から遠くなってる。んだけど、一方で麻雀をダシにした芸能界系の世界であるところの「麻雀界隈」については今でも散発的には話題を目にしていて、そっちはいい感じに経年劣化というか、こなれたダサいエンタメになっている感があって若干白けている、という話を今から書く。

特に去年の神域リーグあたりから、個人的に違和感というか「あー、この界隈は毒されとるな」と思いはじめており、今年も同じ印象を持った。具体的には「界隈」の素人起用の仕方。V系の事務所から金でも流れてるのか、あるいは話題作りなのか、強い弱いではなくて話題性に振ったイベントの水増しばかりでうんざりする。まずは一定の枠を大手が抑えているという印象が拭えない。

「麻雀」について言うなら、まずは数千という単位で半荘プレイして平均で強さが判断されるゲームで、イベントの勝敗でわかるのはその一部。プロの名判断は名判断とわかるときもあるけど、結局は「たまには役満に振り込む」イベント性が込み。

そこを利用してか「麻雀界隈」では初心者やイレギュラーを引き込むことを通じて一定の話題を確保する。究極的には「たまには素人も勝つ」ので、なんとなく褒めて引き込めていけば、なんとなく絵面になる。

また、センスがイマイチな人でもある意味愛嬌があればなんやかんやでその場に留まらせる理由はある。

いやもう、いくらプレイしても全然上手くならないけど界隈の顔みたいなのも成立するんだから、偉大っちゃぁ偉大なのよ、「麻雀」自体は。

厳しい系統の市場ってのはまずそういう舞台にあがる前に厳しいハードルを課すのよ。まぁつまりどっちかといえばMリーグはそっちの演出にはなっている。V周りはその意味ではままごとのイベント化になっちゃっていて、その中にプロに伍する人が混じっているために逆差別がキツめ。

一時期48系の人が愛嬌ベースでゴロゴロそこらへんに跋扈したのを連想することもあって少し……どころではなくて白けるところはあるなーと感じる。

多分、その界隈としてはお金儲けチャーンスの空前のブームみたいなところだし、そもそも私は「界隈」にそこまで大きな関心もないので(利害もないので)、大声で「これが問題だと思いまーす」とは言わない。

この件、私は「解決するべき問題」というよりは「白けるネタ」として見ているだけで、別に白けるネタがたくさん世の中にはあるので、いちいち全部真正面から捉えて打ち返さなくても人生は廻るでしょうとは思う。ただ、白けの蓄積って周辺の人々の人生を空疎にするかな、なんて思う部分はやっぱりあるので、そういう現象を眺める事自体をサブカル的な消費をするのは、なんていうかな、悪くないのだ。

根底には、場を提供しているメディアが儲かる構図があって、そのうちのいくらかが実は外資であって、結果的には外にお金が流れていって、エンターテイメントを通じて楽しく貧しくなるサイクルに見えないこともない。そういう「寂しさ」みたいのもある。

ブームで相対的に注目を浴びやすくなってチヤホヤされることでニコニコする人がいる一方で、真正面から否定のしようのないエネルギーをそこに投入している人が歪んだ動機によって思った通りに舞台に上がれないというある種の劇場が成立している。これ自体を皮肉めいたエンタメと捉えてしまうところが自分の中には実はある。

そして、全体を均して、平均的に言えば、トータルではお金自体はマイナス。ジリ貧を自分たちで持ち込んでしまうのがエンタメの宿命なのかもしれないねぇ。

こんなこと言っちゃうとディズニーランドからしてそうなので、そこまで偏屈な解釈を持ち込む必要など「あんまり」どころか「一切」ないのかもしれないけど、とかく「麻雀」自体の性質が曖昧模糊としている中で興味深い現象だなぁと。ジーパン売りが勝つのだ。

仕事の対象には断じてしたくねぇななんて。なにせ上手くても見栄えのために晴れ舞台から切られるようなエンタメの事情がありそうだし。強くても局所で冷や飯を食わされて裏で別のバーター発生してそうな悪い妄想(陰謀論!)から心が自由になれないんだよね。

相対的に切られないムーブに成功しているもこもこしている人は配信見ているとそのあたり気づいている気がしていて、正直何か言いたいんだと思うんだけど、優遇されちゃっている立場を捨てたいとも断じて思っていないはずで、芸能人としてはそれを吐露もできなそうなので、私にはそこが最高のエンタメに見えているし、そういう動きに白けつつもつきあうかー、ってなってる感じの人もいる気がしていて、それもエンタメになっている。まぁつまり、相対的にはかなり偏屈な意味では良いエンタメになる。一般的な芸能界と比べると個人がまだ個人として生身が見える部分があるのでよし。ただ、徐々に消えるやつやね。事務所とか個人勢でもこなれてくれば、演出してこれちゃうところだ。界隈が大衆化・陳腐化する前の花火をまた見ている。楽しいもぐもぐ

ポラリコやってもないのに書く

2日連続でほぼ開店ダッシュで行ってみましたがポラリコプレイヤーを一人もみませんでした。いや、一回何か音楽聞こえてたので、一人はいたかも。総じてDDR、SDVX、IIDXに完敗です。聖地枠のゲーセンですのでそういう経緯(開店後に張り付くキモいのがいる傾向)はあるんだと思いますが。やーいキモいやつ、俺の友達(σ・∀・)σ

配備されて思ったのは「ここに来るだけのインセンティブ音ゲー上級者にもV好きにもないのだろうな」ということです。

まずV好きの方の方。「来て何を抱えて帰れるのか」を私が語れないので憶測度合いがものすごく大きい前提でいいますけど、直接推す以上のなんかあんの……と思いました。なにせ本体はネットのほうでしょ。「ゲーセンに行く」という壮大な面倒を越えてネットにない、ゲーセンで得られる成分がないと来ないでしょう。

ましてや音ゲーフロアってプライズゲーと比べても別格クラスで入りづらいと思います。最近のタバコ禁止の流れでもなお、おそらく感覚的にはパチスロと同列ではないかな。そこに行ってまでして特別な何かを抱えて逃げて返ってくるイメージになるはずです。そこまでのハードルがもともとあの場所にはあると思います。

さて音ゲー上級者については、ええと言うまでもないな。難しくもなくインセンティブもなければやらないです。解禁でくっそ面倒な巡回をやらかしがちなコンマイだからちょっと嫌な感じはしますが、正直解禁無視ればええです。ここ最近の解禁は半分無視ってます。それでもやれるものは大量にあります。3y3sは取りましたけど。

構造的には上の二枠を別扱いで議論するのが大不正解には思います。上級者は語らないし、初心者は上級者が怖いです。イヤイヤでもいいので、一緒にやるインセンティブがあってよかった。入口はネットじゃないでしょうか。それこそVが「みんなでこのゲーセンで一緒にやりましょう(私はディスプレイ越しだけど)」とかやって、上級音ゲーマーが初心者をアシストする機能(そんなんを作らないとまずできません)とか作って、みんなでゲーセンのその場で盛り上がる。「人が集まるのって良いよね」感がそこまで感極まってないとそもそもV好きが孤独に一人でゲーセンに来ないですよ。エクスクルーシブネスが要ります。

現場で見てはじめて上のようなことを思いました。試すのは良いことですが、おそらくポラリコは崩壊で終わりでしょう。上の話はもし起きたら私は革命だと思いますが、キャラ実装が間に合ってないのにできるわけがありません。

(上の「崩壊」予測が外れることを祈っています。その方が展開として面白いので)

本編以外が未来に行っちゃうと若干「はえ?」ってなっちゃう

それはヴァイオレット・エヴァーガーデンのときも、喪黒福造のときも同じ。

まず前者についていうと、有名なやつなので詳細は略。50年分の手紙のやつ。

良い話だと思うんですけど、「なんでたまにでも会いに来ないんだろうね?」とは思わないではないです。お仕事の人を全員見に行くというのはやりすぎですが、営業というのだってあり得るじゃないですか。

なんでかしらんけど、あの辺りの人はメインの話がウェットなのに、その後の人の関係が異様にドライなのが気になってしまうのがこの私中年であります。契約というか文化的な背景……と言うには依頼周りや依頼外の接触で強い制約を感じませんので、ないと仮定します(小説本編には説明あるんかも)

んでま、もう一つの喪黒福造(笑ゥせぇるすまん)も同じで、未来までスヤスヤ寝ちゃって世界が滅んじゃった人がいます。最後に注釈として喪黒福造出てくるんですが、あなた死んでますよね、みたいな。あっちはオムニバス形式というか主人公の最期を見たいやつではないんですが、それでも昔読んだときにもにょったんす。

 

(追記)劇場版見たら「うわー」ってなった

シレン6 裏真髄クリア

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前回の真髄のクリア階数との比較をすればわかりますが2回でして、正直これを「難しい縛りプレイだ」とは思いませんでした。ちなみに1回は1階で囲まれて死んだという事故死なので本当はカウントしたくない気持ち。少なくとも「え、すぐに終わった……?」みたいな気持ちです。

私事なんすが試験勉強したいなと思うところに真髄に入っちゃったアホなので、時間かからなくて良かったとホッとしてる部分もあるんですがそれはともかく、攻略とは言いませんが「プレイ中に考えたこと」と「ゲームの感想(ありがちなやつ)」を書いていきます。書きはじめる前は分けようと思ったんですがまざっちゃったんでそのままいきます。

 

「裏」については、星を見落としたりロストするのが丸々ダメなので、真髄表よりも注意深くマップを見ること、また星が見つかった際には階のモンスターを見ました。私は本当に本当に本当にケアレスミスが多いのでこの部分は本当に本当に本当に大変だったりしました……。マップ全体を見渡さずに階を降りたことが何回かあって、「やばっ><」と冷や汗。次の石が手に入ったときに数字が並んでいてホッとする、という有り様です。アホです。

星のロストですが、最悪ケースでは全部運、というのが当然あります。例えば「タベラレルーに戦車が弾撃ってその下に星がある」みたいなコントロールほぼ不可能な事象がありえますが、これは今回の自分ケースは起きませんでした。こういう話がある以上、ある一定程度、シレン絶対に運ゲーなので、数回でクリアできることには大した価値はないです。「運が良いね」ということですエッヘン。

次に「カッパ階で投げつけられる」ような事象ですが、これは香と印での緩和策をできるかぎりでしました。カッパ皿が手に入った瞬間に合成しとくとか。

手持ちのアイテムと今後来そうなアイテムの見合いである程度プラン持ってないと、アイテム枠が減るときにはより厳しい展開になるというのは「そう」だと思います。

具体で言うと、今回はサビよけ腕輪が結構前半からありました。今回総じて腕輪はあまり数が出ず、サビよけ以外にまともなのは出ませんでした。

すると、チドロ階層で銀は必ず剥がせます(この使用はこのときにネットで調べました。最初に知っていたわけではないです)。銀の生むと関係なく空き枠に手元の他の武器盾のどれを入れたいかは下手すれば数十階前くらいから意識するのが良いと思います。事実そうしています。

(感想)多分プレイの巧拙について言うとこれ(先の展開を見据えたロングタームのプランニング)が一番知識継承が難しいんだろうなと思います。

眼の前のアイテムの効果云々って私もシレン6の半分くらい分かってない気がします。例えばマゼルンが身代わり状態の時に飲んでくれるか(たぶん飲んでくれません)。笑い状態ではどうか(わかりません……)などなど。

ただ、正直そっちの方は案外些末なことが多い、というかちょっと数多すぎなので別にいいです。持っている手持ちの知識でできるプランを構築できるかのほうが効きます。結局これが慣れている人とそうでない人の違いなんでしょうね(ただ、プランを立てるには先々のモンスターの大まかな性質は絶対に理解しておく必要はあって、その意味では知識ゼロでプランたてられるなんて話はござらん)

結構最近(ここ1〜2年)でシレン5をやっていたので私は運が良い。シレン5の攻略だと、特に原始などあたりからは攻略の勝利パターンを描くことの重要性を訴える人が多くいまして、感銘を受けました。正直シレン5までのダンジョンは勝利パターンが数個しかないことが多いので、ハマらないとほぼ通らない。

シレン6はどちらかというと、勝利パターンはめっちゃあるんだけど事故死誘発がある、特に石集めは石のロストが全部事故死に該当するので、この観点ではとんでもなく違うゲームをやっている、という表現をしても良いんじゃないかと思います。が、それはさておき

白紙が相対的には「非常によく出る」ダンジョンなので、これの使い方の幅をどこで持たせてどこで使うかは考えるところではあります。まぁ確かにここは私下手なほうではないかも。

実際にあった例。呪われたアイテムが武器盾含めて複数あり、そのなかに白紙の巻物。おはらいの巻物はなく、もう一枚呪われていない白紙の巻物がみつかりました。どうしよう

→ 山姥系がない前提ではあるが、呪われている可能性のあるアイテムを壺から全部だしつつ白紙の呪いを白紙(おはらいにする)で解呪する。その際に「ラッキー」が出る可能性を一旦は期待する(でなくても展開としてはイーブン) OR もしくは枠が十分なら呪い白紙を抱えて移動する

ダメなのは選択肢を思いつけないことで、特にまずいのは「呪い白紙を捨てる」じゃないかなと。ここで丁寧に一個一個勝率を上げられるのは大事かなと。

ただ、このダンジョンについてはちょっと白紙が出すぎるところがあって、ちょっと考慮力があっても勝率にどのくらい深く起因するかはわからないな、とも思いました。(感想)救済策が露骨すぎて、この手の練度を上げる機会は実はシレン6ではプレイヤーからは奪われている(代わりに楽しさに振っている)気がします。

白紙がある前提ではありますが、何をねだやしにするかも「先々の展開」に基づいて考えるというのは良い気がします。もちろんアドリブも同時に必要。今回は戦車ダンジョンで香もないのに最初に5体くらいに囲まれた展開があって仕方無しに1個しかなかった白紙をねだやしにしたりしていて「若干運が悪いな(´・ω・`)」とか思ったもんです

先々の展開には不透明な要素がごまんとある感じなので、単一の正解はなく勝率の分布が変化するだけです。ベイズ予測っぽいことをしましょう。(感想)とするとやはり経験はものを行ってるんでしょうね……

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後半階層で死んだ例も含めて真髄では後半に行けたすべてのケースでがいこつまどう系のねだやしは必ず行ってました。私の場合ケアレスみすがものすごく多いのでシハンも対象にすべきだとあとで反省しました。

真髄のモンスター配置を見ると、あるところで重点的に出たモンスターの系列が以降全くでなくなるということがよく起こりますので、「ねだやしのリレー」みたいのを考えるのが自然なんだろうなと思いました。真髄というダンジョンのだいぶ偏ったモンスター配置と白紙がよく出てはじめて発想にあがるものな気がします。

「特異なモンスター配置」と「白紙頻出」の組み合わせで「ねだやしリレー」が自然に出てくるわけですが、同様に手持ちのアイテムの組み合わせで出てくるコンボが真髄だとかなり多くなります(救済処置多すぎ)。プレイを一旦止めてでも「展開どういうのがあり得るか」を構想してみても良いかもです。

もしかすると私が真髄に苦労しないのは「結構よく中断している」からかも。まとめて時間取れないんですよ。中断している間にも(長い間やらずに全体を忘れてしまうほどではないので)一応展開とかは覚えているんですが、それによって良い戦略をその場で思いつく可能性があがっているかも。

渋いアイテムの組み合わせでもたまに良いコンボというかが発生することはありますので、適度に足を止めて(先々のモンスター配置を見つつ)あり得る展開を練るのはありだと思います。

前提として、大体思った通りの展開にはなりません。だいぶ前ですが私もシレン慣れしていないころは「思った展開一本」が外れるとゲームオーバー気味に考えていたところはあります。ただこれはシレン(しかも幅が大きいシレン6)の思考としてはNG。

真髄1周目で盾ロストしたときは流石に終わったと思ったんですが80F〜99F普通に通過できたのもちょっと驚きですが、そのくらいリカバリが効く感じになっています。まぁハリセン印と、桃まん杖がたまたまちょっとあったために成立した冥王まんでのショートカットが効いたんです。冥王まんショートカットはその場で思いついたんですが(いや、昔からよくあるやつですけど)、そういう展開を(再)発見できる方が一通りの展開を祈るよりは柔軟です(麻雀かな……)

大事なのは「展開のパターンが想像できる柔軟性」みたいなのかなと。これは実際に展開を想像して空振りしないと良くならないです。繰り返すとベイズ予測っぽいことをすると良いです。

(感想)シレンが多少やりやすくなったのは麻雀(の不確実性)を学んだおかげかも。しらんけど

 

正直、もともとの「真髄」に対して、星12個のアイテム枠縛りを入れてもゲームとして余裕で成立することに気づいて作り込んだ人は相当「偉い」と思います。というのも、言い方を変えると、アイテム12枠の違いがあってもどちらもシレン6というレベル感のゲームの中で成立する(難しすぎるといった判断にならない、ガチンコ万歩みたいのにならない)ことを立証できているからです。どうやって思いついたんだろな……

 

雑多ですが以上です。

 

シレン6のBGMとゲームの音楽一般雑感

Twitterで作曲担当的な会社の人がポストしていて考え込んだことがあったので、思い出したついでにメモっとく。ディスる意図はないんだ。

シレン6のBGMが悪いとは思わないんだけど、2つ気になることがある

  • 印象に残らない
  • 「どこにいるのか」イマイチわからない

行き着くと「テーマ曲がぼやけた」というところに行く。これはシレン5もある意味全く同じかもしれない(気づいたのがシレン6だったというだけ)

「私の初代シレンに対するイメージが強すぎる」という指摘があるとすれば、それはその通り。

シレン初代について言うなら、例えばゲームの区切りで宿場に戻ると、初代の典型的な序奏が弦楽器で流れ始め、メインテーマ的なのが流れ始める

youtu.be

概ね非常に多くの場所で同じフレーズの変奏曲のような感じが続く。これはトルネコの大冒険のときから同じだ。ただし、階層が深くなると曲が重くなったりする。

シレン6について言えばこういう仕掛けは希薄で、どちらかといえば「こういうの、喜ぶでしょ?」みたいな、変奏の仕方を表面的に舐めるような曲の演出を感じる。

「表面的」と言うと悪いみたいだが、そこは半々だ。例えばモンハウの曲はこの「表面」はとても大事で、「一大事!!」みたいな雰囲気と、最近のシレン(初代は多分この装置はない)にある「部屋に敵がいなくなったら(≒いったん落ち着いたら)曲がフロアの通常曲に戻る」といったところは良い。

問題は、音楽からは「一貫してシレンを感じる」「シレンの現在いる位置を感じる」ことができない、ということなのかなと思う。

シレンを感じない」→印象に残らない

シレンの現在いる位置を感じない」→「どこにいるのか」イマイチわからない

極論「その結果として」、とぐろ島というのは単なるダンジョン置き場でしかなくて、裏真髄と無双以外をクリアした現状で思うのは「シナリオ要らないからダンジョンだけ出して。シレン5のおばさんダンジョン紹介みたいな作りで十分なの」と思ってしまったりする。チュートリアルとしては大事なんだけどね……(合成の壺と異種合成の説明はシレン5にもあるべきだとは思った)。

一見テーブルマウンテンの入口と同じ雰囲気のある後半戦の印象がとにかく薄味なことに当初「なんでだろう」と思った。曲がすべての要因ではないんだけど、進んでいくときにBGMの方で盛り上げるという趣旨がおそらく抜けているのは、無視できない要因かもしれない、と思った次第だ。

より一般的な文脈に持っていくと、絵面やシチュエーションにすごくエネルギーを持ってくるけど、ゲームの中での印象の一貫性を維持して補強する音楽の仕組みは最近だいぶ失われたと感じなくもない。

全然別の分野のゲームを挙げる。フロムの死にゲーも自分はきらいではないんだけど、例えばダークソウルのBGMをサントラで聞いたときに「?」となったのであった。何か、曲から想起させてゲーム体験を思い返すようなものがあんまりない。どっちかといえば効果音(篝火とか、新しいエリアに入ったときの鐘みたいな音とか)のほうがはるかに強い印象を形成してしまう。(書いていて思ったが、フロムのゲームでBGMが強すぎるとトラウマになる気もしないではないな……)

の一貫性は、音楽だけでなくてゲームコンテンツがある一定の分量で維持されていて、ユーザの導線がそれにしたがって順番に形成されていく場合に特に大事にはなる。オープンワールドで自由に動き回れる場合は、音楽と順序のあるゲーム内シーンの連動というのは作りづらい。そういうのもあって、概ね曲は場の雰囲気だけを表象する、過去の作品との関連付けを想起させる、といったものになる。

私自身はやってない作品も結構あるんだけど、任天堂のゲームはむしろこういうのには丁寧なのかも、と聞く限りでは思う。スプラのヒーローモードの曲調は少なくとも対戦時と雰囲気(というか曲ジャンル)を意識的に変えている。そういったことを通じてプレイヤーが想起するゲーム内のキャラの現在地が異なること、独特の印象を残すことに(一部か全部かはともかく)成功している。

以前と比べてゲーム内BGMが持つ性質が上述の通り変化している、という状況自体が「悪い」ことという認識まではないし、BGMに求めるものがこのレベルになると、おそらくは「音大に起因する英知」みたいのが自然と求められてしまうのではないかなとも思う。テーマ曲の同じフレーズを使いつつそれを場面に併せて変容させる芸当というのは古典的で個人的には好きだけど、とてもではないがカジュアルなオレオレ作曲、あるいは仕事上のパイプライン的な活動の中でできそうなイメージが(私には)沸かない。また、個人的にはFF13を最後に、そういう印象で心が盛り上がったゲームはない。

シレン6において、BGMの作りが変容してゲーム内の一貫性を維持できていないこと、またそこから、ここ最近のゲーム一般で、ゲームの作られ方も影響してか同様の問題がある、といった趣旨に近い何かを以上で述べた。この事象が昨今のゲームが消費されて浪費されることと何か関係があるか、よくわからないがよくわからないんじゃないか。

シレン6の普通の真髄クリア

 

(ふっとばされたのは盾です)

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上に書いた通りで「設計がクリア」というのが良くも悪くも私が経験してきたシレンのどのダンジョンとも違う気がする。これはこれで割り切りが良いんじゃないだろか。

Twitter見てると、真髄については賛否あるダンジョンというのは間違いないっぽい。私の思う表現でいうと、極論するとこのダンジョンのバランス調整は「挑戦」ではなく「接待」の文脈で整えられている感じがする。この使い勝手で復活の草が毒消し草より安い市場というのが自分には違和感がある。

ファンタジーはファンタジーなりに何らかの一貫した世界観クラスの思想があってほしい気がしていて、ゲームバランスのために店主がピエロやっている感じ。風来人……というそういうのが全部パロディ的に見えてきてしまう。ドラゴンボールにおける両津勘吉の登場である。

もちろん、そもそもで言うとゲームというのはそういうところは絶対にある。大体、誰も到達できないダンジョンの深層で店を広げるバカが、なんであんなに存在するのか、という話がある。つまりシレンは初代からずっと極論「茶番」なわけなんだけど、やはり茶番は茶番なりに、値付けにここまで忖度がある状態はふっしぎー、な気持ちになるんであった。

とはいえ、もうナンバリングだけで「6」なのであった。「難しければ良いよね」っていうのはもうシレンの世界でも違うとは思う。そういう素朴な思想の極限って、すでに裏白蛇の時点で一定以上やりきっちゃってるし、ガチンコ万歩もある意味そうだし、掛け軸裏99Fもそうだろうと。あるいはもう少し純粋なダンジョン設計のチャレンジの筋でもシレン5のレベル超過モンスター勢力とかそういう文脈で散々やっちゃっている。そこにきて、10年単位のブランクを空けてシレン6においてそっちに方向性を振ってたら絶対売れていないだろうし、販売数云々だけでなく「面白い」という感じも、なかなか多くの人にとって持てない作品になってたんじゃなかろか。

別の例だと、アクションで言えば1フレームしか許さない操作が楽しいってわけじゃなくて、むやみに難しいのが善でないのは、流石にここ数十年のコンピュータゲームの多々ある文脈の中で余裕で明らかになっちゃってるんだと思う。純粋にクリアギリギリで難しいという挑戦自体が既存のフォーマットでは相当やりきられちゃっていて開発におけるコスパもおそらくは全然良くない。裏白蛇とGAMBOLとケツイとグラ3のキューブ地帯と高橋名人の冒険島の8-3を直列繋ぎしたら多分すんごく難しいけど、そういうのは「楽しくない」で切り捨てて良いと思う。

一方でパチスロとガチャで麻薬的でいいのかっつったらそれはそれで違う方面で悩む。めんどくさいね人類。

そして、現代のゲームで「難しく面白い」はどこかしら「接待」に過ぎなくなってくる印象はある。そういうわけだから、真髄の難易度議論は不毛だ。