真 もわ爛漫

しゃーら、しゃーらしゃーら

むやみに老後を考えていた

40代前半なんだけど「老後」考えてた。お、なんかこのブログ始めた頃には想像もしない論点が出てきたな

ゲームもそうなんだけど、特に本読んでて念頭にあるのは「現実にどう応用できるだろーか」みたいなところだったりする。ゲームも、結構な比率で「どう現実の対処力に良い影響を与えられるか」みたいなところが重視される。

老後というのは「そういう応用すべき現実が『ない』状態」だとすると、そういう「将来に備える」みたいな視点とは独立に、なにか満足を得ないといけない。でなければ、応用の先がなければやる意味合いは感じないはずだ。やっててむなしくなる。

40にもなると、成長というよりは「抗劣化」の観点のほうが強い。DDRもそう。基本的には衰える体をどう「もたせる」か、みたいなところがある。「もたせる」理由がないのに「もたせる」必要はたぶん感じない。

単純な「眼の前の快楽」が行動の背景にない、というわけではないんだけど、やはり「次に繋がるなにか」を自分は大事にしたがる。ところが、40とか50みたいな年代になると、先にあるのはすごくシンプルな「成長」よりも、不可避の「死」のほうだったりする。だって成長する前に普通に「膝が痛い」わけよ。

すると、将来投資という言い訳はこのあたりではそろそろ通じなくて、劣化する未来がそんなにない身体を前提として、何に対して時間費やすの、みたいな話は多少は考えたほうが良いんじゃないかなと。

先行して年とってる人の中には「評論」に逃げる人もいる。あれは……なんだろうね、なんかバカらしいなと思うところはあって、そうすると結構早い段階で「老後の充実感」の持ち方ってのは考えたほうが良いのかも、なんて思ったわけ。

長らく「将来に自己の成長があり、故にそれに投資すれば安牌」という想定で生きてきた側面があるんだけど、老化が顕著に訪れる時期に「投資」とかばかじゃねーのってなるわけで。